それは俺のだ、返せ
まだ行ったことのなかった、比較的近場の映画館がレディースデーだったので、仕事終わりに気になっていた作品を観に行ってきた。
アイスと雨音という映画は、わたしが今までMVでしか見たことのないような手法で撮影されたもので、息つく暇もない、という印象だった。
引き込まれていっては戻ってくる感覚が気持ち悪すぎて、エンドロールの後にすぐ離席する他の客に驚きながらもどうやって帰ればいいかと、考えるまでもなくただ駅まで歩いて電車に乗って最寄りで降りればいいだけなのだけれど、少し気が遠くなりながら帰路に着いていた。
見せつけられたのは青春そのものよりも、そのようなことが過去出来なかった(しなかった)自分のひどい卑屈さだったし、さらに今や座右の銘にしていることを否定されるような"正しさのある台詞(歌詞)"に、明日からどうやって生きようかとか思った。
演劇というものが嫌いになりそうだったのは、きっと別の理由に帰するのだと思う。
それでも誰かと
とあるアカウントが更新を知らせるブログの、何とも耳の痛いような内容の記事を読んだ。
筆者は自分とはまるで正反対のタイプの方であるが、己の若さゆえの考え方の甘さにある出来事で気付き、非常にポジティブな捉え方ができるようになったというような記事で、今おそらくわたしが一番目を塞ぎたい自身の甘さ(アオさ)を思い知る気持ちにさせられた。
「わたしはまだそんなに大人になれねー。」
自分の中に居座っている対極のふたりが最近抗争の激しさを増している。
戒める側のわたしは、仕事中に特に見張っていてくれて、多く口出ししてくれていると思う。
一方で、TPOを全く重んじないわたしが脳内でいろいろな土地に住み思いつきで職に就いてみては起こり得るトラブルを捻出して挫折する、だとかいう妄想を延々と繰り返したりすることがある。
だいたい金が尽きて苦しむのが定番のオチらしい。
小学生時代に妄想グセがついてしまったので、コミュニケーションにおいても今までそれが常に足枷になってきた。
創り上げるような妄想はクリアにできても、今まさに目の前にいる相手の心情が想像できていないこともあるように思う。
想像力が豊かというのはわたしの場合妄想にすぎなくて、あまり褒められたことではないのではないか。
ドアを閉めて不意に大きな音が出てしまったとき、怒っていると思われただろうかといちいち気にするし、今日の発言の中で相手を不快にさせたものは無かったかと毎日のように思い返す。
ここ一年ほどで確実に自己主張がはっきりして来たと自覚していて、良いこととして推進すらしてきたが、他人から見れば単にわがままになっただけのように映っている気がしてならない。
無知とは大罪であって、知るためには関わる、人にも関わる、関わるには、発しないといけない、表現しないといけない。そのための、良き変化だと自分では思っていた。
とある上手くいかなかった関係によって人との関わり方の正解が一気に何もかも分からなくなって情けねーとか思っていて、でもそれでも関わっていかないと、生きていけないのはよく分かった。
自分が何もしなければ誰も傷つけない、攻撃されないはず、という考え方を改めた方が良さそうらしい。
難しくても絶対に諦めない。
解決するのではなく付き合って行く
社会人になれば当然のようにしんどそうな大人になるんだろうな、と思いながら、果たして高校時代を過ごしていたんだろうか。
健康管理的な仕事をしている方に、最近本格的に治したいと思う不調についての悩みを相談してみると、「そういうのって、これやったから綺麗さっぱり消えました!ってことあんまりないから、うまく付き合って生きていくのが楽でいいよ〜」と、持ち前の陽気さで教えてくださった。
その人は、こちらが愚痴と気づかないような愚痴のこぼし方ができるのでその作法は見習いたいなと思いつつ、わたしが鈍感すぎるだけかも知れない。
無理に解決してしまおうとしなくていい。
許せないことは許せないままでいい。と誰かも言っていたな。
最近野菜を食べられていない、栄養不足だからダメなんだと思いますと漏らした時も、「そんなこと思うのが世の中のフツーの一人暮らしのフツーの女の子だよ〜全然大丈夫だよ〜」と言ってもらえて肩の力が抜けた気がした。
たまには荒療治、と思い立っても、いかんせん酒に弱い。
修行すると言って鼻息荒く飲みの予定を詰め込むも1週目とかで息切れしてはまた調子に乗り息切れ…を繰り返しても、休肝期間が何故か伸びていくばかりだ。
強くなりたいと言うと、異口同音に「ならんでよろしい」とピシャッと言われてしまう。それなりにみな失敗したからであろうけど、だって楽しそうなんだもん。
ただ、酒癖の悪すぎる人とは心から距離を置きたい。
正しいことが正しいと思ってた
「あなたが好き」と言われたら「私のこと好きなんだな」と捉える。
リンゴはリンゴにしか見えない。
白は白だし黒は黒でルールは守るためにあって自分がされて嫌なことは人にしてはいけないに決まっているし、例外はあれどYESかNOが基本。
間違って伝わることがものすごく苦手で、ドラマでよくあるオーバーな演技の"勘違いシーン"を見るたびにもやもやしてきた。
(さらに登場人物たちは"はぁ…"とか言って誤解を解きに行かないもんだから尚更だった)
自分の考えや気持ちは他人に正しく伝わってくれないとどうしても嫌で、すると説明が長くなり会話の歯切れが悪くなる。
簡潔な言葉では足りないと思ってしまうから。
成人してから、「多少勘違いされててもいいか、面倒だし」と思うようになった時期もあったけど、やっぱり私の中で正しいことが正しいし真実だけが純粋な頼りだ。
矛盾したこと、筋が通っていないことも嫌いで、自分自身の中に矛盾を見つけた日には一晩中悩み込んで眠れないこともある。
どっちを信じればいいのか分からない(どっちが真実か分からない)場合は、提示されたり希望される方を正として信じたいと思う。
私のストレスになり得ることの大きな原因の一つに、"真実が分からない(決まらない)"ことがあると最近発見をした。
信じたいものは、思いっきり信じていないと進めない。
日記
治らない不調が続く。
職場には幸いなことにストレスはそんなにない。
映画が好きだ。最近よく映画館へ赴くようになって、ほぼその楽しみだけが癒しになりつつある。
今まで観た映画どれくらいあるんだろう…と思い、フィルマークスで感想の良し悪し関係なくチェックしていくと300本もなかった。
世の中にはすでに一生かけても観きれない作品がすでにあって、尚且つ毎年毎年何本も新しいものが上映されている。
財力さえあれば生きることに飽きたりしないだろうなと思う。
ドキュメンタリーの作品には、しばしば安心感を覚える。
実在する人物の生活や価値観や置かれている現状を知ることで、そこに自分との重なりがあれば「自分だけじゃない」と思えるし、「こんな方法が実現している!」と勇気をもらえたりする。
毎日毎日、妄想空想で振り回されているくせに根っからの現実主義だからだと思う。夢見られない。
行ってみたい映画館というのもあるし、すでに今観たい作品が何本かあって、どうにかこの楽しみで乗り越えたい何かを乗り越えたい。