それでも誰かと
とあるアカウントが更新を知らせるブログの、何とも耳の痛いような内容の記事を読んだ。
筆者は自分とはまるで正反対のタイプの方であるが、己の若さゆえの考え方の甘さにある出来事で気付き、非常にポジティブな捉え方ができるようになったというような記事で、今おそらくわたしが一番目を塞ぎたい自身の甘さ(アオさ)を思い知る気持ちにさせられた。
「わたしはまだそんなに大人になれねー。」
自分の中に居座っている対極のふたりが最近抗争の激しさを増している。
戒める側のわたしは、仕事中に特に見張っていてくれて、多く口出ししてくれていると思う。
一方で、TPOを全く重んじないわたしが脳内でいろいろな土地に住み思いつきで職に就いてみては起こり得るトラブルを捻出して挫折する、だとかいう妄想を延々と繰り返したりすることがある。
だいたい金が尽きて苦しむのが定番のオチらしい。
小学生時代に妄想グセがついてしまったので、コミュニケーションにおいても今までそれが常に足枷になってきた。
創り上げるような妄想はクリアにできても、今まさに目の前にいる相手の心情が想像できていないこともあるように思う。
想像力が豊かというのはわたしの場合妄想にすぎなくて、あまり褒められたことではないのではないか。
ドアを閉めて不意に大きな音が出てしまったとき、怒っていると思われただろうかといちいち気にするし、今日の発言の中で相手を不快にさせたものは無かったかと毎日のように思い返す。
ここ一年ほどで確実に自己主張がはっきりして来たと自覚していて、良いこととして推進すらしてきたが、他人から見れば単にわがままになっただけのように映っている気がしてならない。
無知とは大罪であって、知るためには関わる、人にも関わる、関わるには、発しないといけない、表現しないといけない。そのための、良き変化だと自分では思っていた。
とある上手くいかなかった関係によって人との関わり方の正解が一気に何もかも分からなくなって情けねーとか思っていて、でもそれでも関わっていかないと、生きていけないのはよく分かった。
自分が何もしなければ誰も傷つけない、攻撃されないはず、という考え方を改めた方が良さそうらしい。
難しくても絶対に諦めない。